誰かと暮らすということ──自由とバランスのあいだで

誰かと暮らすということは
誰かと暮らすというのは、当たり前だけど一人で暮らすことと同じではない。
好きなように振る舞うわけにはいかないし、相手のペースに合わせる必要も出てくる。その窮屈さを幸せに感じることが誰かと暮らすことでしか味わえない醍醐味なのかもしれない。
そしてそこそこの日数を二人で過ごしていれば、お互いが心地よく暮らせる(ある程度の)ルールが自然とできあがる。それは法律のように明記されたものではない、暗黙のルールだ。
その“暗黙のルール”は「テレビの音量は10以下」「スマホの通知音はすべてオフ」といった目に見えない制限の集合体だった。
ただし一方が強く(押しつけるように)ルールを作ってしまう場合もある。そのルールが結局は二人の暮らしを解消するきっかけになった。
音を失った日常
私は暗黙のルールによって好きな音楽を捨ててた時期があった。
私は快く同意したわけではないけど、心地よく暮らすためには同意せざるを得なかった。そのルール(暗黙)を作った人は部屋の中で大きな音を出すことを嫌っていた。
音楽の音量だけではなく、テレビの音量、生活音すべてが存在するかしないかぐらい控えめな音で暮らしていた。まるでなにかから逃げてきたかのように。
そんな暮らしに対して、私は不満を持っていた。でも不満は言わなかった。この不満を打ち明けることはすなわち「お別れ」することを“なんとなく”分かっていたから。
“音だけで二人の関係を壊すことはない。大きな音で音楽を聞きたいならイヤホンして聞けばいい。それに絶対に聞けないわけじゃない。──そうだろ。”
はじめのうちは部屋で一人っきりになると、自分が快適に聞ける音量で音楽を聞いていたし、テレビを見ていた。そして相手が帰ってきたら“音量を戻す”という作業をしていた。
でもいつしかそんな作業も手間に感じるようになってきて、一人になっても快適な音量にすることがなくなった。
そのうち聴力をふるに活かして聞かなければならない音楽やテレビに魅力を感じなくなり、電源をオンにすることが減った。
それでも一緒に暮らしたことを正解にしたかった。
でも、今までカラフルだったものが白黒になってしまったようだった。
白黒になった世界で
彩りを欠いた生活は窮屈さだけが残った。誰かと一緒に暮らすことは容易いことではない。楽しいこともあればそうでもないこともある。
楽しくないとき、“自分の好きなこと”に逃げられないことを想像してみてください。うんざりしませんか。
好きなことを捨てたことで自分が自分ではなくなってしまったような気もして寂しくなった。やはり、私は自分を捨ててまで誰かと一緒に暮らすことはできなかった。
誰かと暮らすことは悪いことばかりではない。でもお互いの価値観が違えば居心地が悪いものになってしまう。
私たちには絶妙なバランス感覚が大切になってくる。