日常

モノを捨てるということ——手紙と写真の向こう側

pes

集まるモノ

もともとモノを持つことが好きだ。

例えば、好きなミュージシャンがいたらその人のCDは全部揃えないと気がすまない。ただ、お金がふんだんにあるわけではないので、シングルは買わずに“アルバム”だけ揃えることが多い。またモノ系の雑誌を読むと、すぐにおすすめのガジェットが欲しくなる。もちろん、かっこいいとか便利だとか思わないと欲しくはならない。

私としては意識してモノを増やしているつもりはなく、自然とモノが増えているような感覚だ。なので、じっくり部屋を見渡してみるとモノが意外とあってぎょっとすることもある。

「とはいっても好きだからなぁ」とも思う。こうして、自分で好きだと思ったモノに囲まれていることは嫌いではない。

そんな私が昨今のミニマリストの波に乗って、大量に(それなりに)モノを捨てた。不思議なことに、捨ててみても困らなかったものがいくつかある。

捨てて困らなかったもの

友人からの手紙や写真

友人の手紙や写真を段ボールに詰めて、引っ越しの度に連れてきていたが「もうそろそろお別れしてもいいだろう」となり捨てた。

まだ学校を卒業して間もないならまだ、感傷に浸ることもあるだろうけど。さすがに卒業して十年以上も経つと感傷にも浸れなくなる。手紙を読み返してみても、そこにあったはずの事実が、自分がいいように解釈した思い出となっていく感覚があった。

手紙を書いてくれた人も、だいぶ変わったはずだ。学校に通っていたときは交わるポイントが少なからずあったし、私が知っている友人として存在していた。でも、学校を卒業すると交わるポイントがほぼ減って、私が知らない友人になってしまった。

いまとなっては、私が知らない友人になってしまった人からの手紙にしがみつくことはないのではないだろうかと思うようになった。

手紙を送った側も、きっと「捨ててもらってけっこう」と思っている。少なくとも、私が書いた手紙ならそうだ。

手紙と同じように、写真も処分した。そんなにポイポイ捨てなくてもいいのではと手が止まるときもあったけど、写真をとっておいたとしてもこの先どこかで捨てることになるのだ。

写真も手紙と同様、時間があまりに経ちすぎると見て感傷にも浸れなくなっていた。(本来は時間が経つほうが感傷に浸れるのかもしれない)

写真を見て思うことは「あの頃は若かった」それぐらいだ。

手紙にも写真にも言えることだけど、見返す機会がない。毎日、なにかに追われるように過ごしていると、過去を手にしてじっくり眺めるなんてことができないように感じられる。

こういった理由で私は手紙も写真も段ボールからゴミ箱へと移した。

後悔はない。「あーまたあの手紙読みたいな」なんてことはおきない。私はいま現実という激流に流されないように、必死に生きている。過去のことはたまに、ふと何気なく思い出すくらいでいい。

唯一の後悔は写真を少しだけとっておけばよかったかなと思う。デジタル化するとか。うん、でもそのうちそれもゴミ箱へ入れてしまうかもしれないけど。

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT ME
pes
pes
日常エッセイスト
1984年生まれ。エッセイスト。 小さなできごと(いいことも、わるいことも)を、ここに書き留めています。
記事URLをコピーしました