ものを持つこと、ものに持たれること

ものを持つということ
このごろ、“もの”を持つことに抵抗をもつようになった。
もともと“もの”を持たない人ではない。ひとり暮らしをしていた頃なんて、埃で装飾されたフィギュアを大量に飾っていたし、洋服もからだが足りないくらい持っていた。もう読まない(読むことがないだろう)友人からもらった手紙とかも。
ふと気がつくと、ものを持たない人になっていた。きっかけがあったとは思うけど、残念ながら具体的には覚えていない。でも、いつからか“もの”に対して期待をしなくなった。
ものを持っていたときは、持っているだけで気分が高揚する気がしたし(残念ながら、その高揚はあっという間に終わる)、持つもので自分を武装しているような気持ちでいた。
そのうち、新しくて魅力的なものや服を追い続けていても、きりがないことに気づいた。自分自身が変わらなかったことにも。
それからは自分を磨くことに注力するようになった。まだまだ発展途上だけど。
家族はもの持ちがよすぎる
私の家族もものを持つのが好きだ。簡単に捨てようとすると「もったいない」「いつか使えるかもしれない」といってなかなかゴミ箱へ運ばせてもらえない。ならば、新しくものを買うことに抵抗があるかというとそうではない。新しいものも大好きだから、結果としてものは増える一方だ。
兄はその代表格だ。家族のなかでも一番“もの”または“服”を持っている。兄だけで洋服タンスを4竿ぐらい、いやもしくはそれ以上あるのではないかと思う。母はたびたび古くなった洋服を兄に見せて「これ捨てないのか」と聞くけど、決まって「捨てない」と返ってくる。本当に破れたり、汚れが落ちなかった場合でしか捨てないのかもしれない。
昔だと兄はそういう人だし、母も兄に対して甘いから仕方ないかと思っていたけど近頃は思うことが変わってきた。「年齢を考えたら、そろそろ真剣に持つものを見直すべきではないか」と。
兄は高齢ではないけど、母はしっかり高齢者の仲間入りしている。母がまだ元気なうちに実家のものや服を減らす努力は必要ではないかと思っている。
そうしないと兄が一人になったら、本当に実家がゴミ屋敷になってしまうかもしれないと私は恐れている。
とはいっても、母も捨てることがあまり好きではない。
母は食器棚を整理したらしいけど、「なにもすてるものがなかった」と言っていた。実家の食器棚には大量の食器があるように私には見える。現在、三人で実家に暮らしているが大家族になっても食器には困らないぐらいある。
私も一緒に実家のものの整理をすればいいのだろうけど、きっとお互いに思い通りにならなくて不穏な雰囲気になるのがおち。なので今は見てみぬふりをしている。
生きるには“もの”が必要だ。けれど過剰にありすぎると、人を縛りつける。「ものを持つ」のはいい。でも「ものに持たれる」ようになったら、窮屈だ。
そろそろ、自分が“もの”との関係を選び直す時期にきている。