思い出になるのは、やらなくてもいいこと|合理性と「ムダ」をめぐる七夕の話

最近はこのご時世もあって、なんでも効率的に済ませようとしてしまうところがある。例えば、余計なことにお金を使わないとか。
でも、余計なことは、料理に添えてあるクレソンみたいに、なくても困らないけれど、あると少し心が豊かになる。
出来事が思い出になる
七夕の神社
先日、神社に子どもと一緒に行った。
そこの神社は例年、七夕になると「七夕てるてるトンネル」が設置される。たくさんのカラフルな「てるてる坊主」と「てるてる坊主短冊」が飾られていて、天気がいい日にカメラを向けるときれいに撮れる。「てるてる坊主短冊」を購入すれば、願い事をかいてトンネルに飾れるのだ。
その光景に、子どもは「きれーぃ」とはしゃぎ、短冊を見て「かきたーぃ」と目をキラキラさせていた。私は、短冊を見て「願い事を書いたからどうなんだ」と思ったが、子どもの顔を見ていたら、願い事を書いて、トンネルに短冊を付けるときのワクワクした表情が見たくなった。
しかし、「てるてる坊主短冊」は1枚300円。高くはないけれど、ためらうには十分な値段。うまい値段設定ですね。ちょっと悩む値段だけれど、購入してみんな短冊に願い事を書きました。
後日、この日のことは、私も子どもにとってもいい思い出になっている。
今までは、こういうのを「ムダ」「意味ない」とスルーしていたけど、合理性だけで仕分けしていくと、生活に彩りがなくなってしまいますね。
思い出になるのは「やらなくていいこと」
先ほどの神社の話も、「てるてる坊主短冊」はやらなくても困らないことである。やってもいいし、やらなくてもいい。でも、やらなくていいことを、あえてやってみると後々いい思い出になったりする。
余計なことしかしなかった子ども時代
私が子ども時代、親と一緒に観光地に行くことがあったが、思い出に残っていることはきれいなものではない。例えば、屋台で買った食べ物のことだったり(鮎の塩焼き食べたな)、買ってもらったキーホルダー(とてもくだらない)、車の中で話したおしゃべりだったりする。
観光地で見た滝とか、神社もなんとなくは覚えているが、そうじゃないことのほうが思い出の輪郭ははっきりしている。
結局、大事なのは場所ではなく、そこでなにをしたのかもしれない。場所がよければ更にいいけれど。
余計なことにはお金がかかる
とはいっても、「余計なこと」をするには、お金がかかる。だから、大人は仕事をはりきって頑張らないといけないのだろう。カリカリ。必要ないことのために頑張るという構図が人生らしくて、なんだかいい。
なんでもかんでも合理化するのではなく、あえて「余計なこと」を取り入れていく。
いま考えれば、私の親はけっこうムダなことをする人だと思う。そこにたくさんお金を使ってきたし、いまも使っている。そのことに対し、悔やんでおいおい泣いていないので後悔していないのだろう。
もちろん、思い出はいいものだけではありません。なので、時間が経ってから思い出すことをおすすめします。時間が思い出をいい感じに面白くしてくれますよ。