スマホと私と母
スマホ依存
「スマホ依存」という言葉をよく目にしたり、聞くようになりましたね。私ももちろんスマホを所有しています。一日まったくスマホに触れないことは、まずありません。家族からの連絡はスマホ、学校からの連絡もスマホ、今日の天気を知りたいときもスマホ、世の中の出来事を知るにもスマホ。スマホは生活の相棒として、せっせと働いてくれています。過重労働です。スマホからしたら、こんなに働いているのに「スマホ依存」なんて、ネガティブなこと言われるなんて、ぷんぷんと怒っているかもしれません。
でもやはりスマホに、あまり依存したくない気持ちはあります。なので私なりにルールを作っています。まずは「X」「インスタ」は見ない、アカウントを持っていたけど削除しました、おかげでいっぱい見せてくれないので、そこに時間を費やすことがなくなりました。中毒性はあるけど、いいものではないですよね。人生にとって大事なことは、そこにはない気がします。
スマホが使えなかったら
たまにスマホが使えなかったら、機械に疎かったらどうなっていただろうかと思う。PESさんはラインしても気づかないから、電話しましょう、ああめんどうね。 なんて言われていたかもしれない。ラジオをぽちっとつけて、新聞をパラパラ読み、窓をガラッと開けて、今日はいい天気になりそうだな、と過ごしてたかもしれない。
お店での支払いも、いまでは携帯をかざせばピッとできてしまう。ピッとできなかった頃は、レジにならんで、財布の中の小銭をジャラジャラと数えて、この感じだとこれぐらいだなと予想して、すぐに出せるように準備をしていた。
じゃあそこに戻りたいかと訊かれたら、うーん、いまのままで大丈夫ですと言ってしまう気がする。たとえ「スマホ依存」といわれたとしても、いまのほうがいい。きっと。
母とスマホ
私の両親は「スマホ依存」ではない。いや依存できないが正しいかもしれない。スマホを使い始めて、それなりに経つのに、いまだに爆弾装置にふれるかのように恐るおそる触っている。「いまの人は、ずっとスマホ触ってるのね」なんて嫌味もいう。私は実家に帰ると、やることがなくて、スマホでスポーツニュースを見たり、眠くならなそうな本を読んだりする。ついでにイヤホンをつけて心地よい音楽も聴く。じろっと母が私を見るときがあり、萎縮をするけど、べつにかまわないやとやり過ごしてる。
そんな母のスマホはよくわからない不調が出る。それは恐る恐るスマホを使っているせいなのか、母とスマホの関係がよくないからなのかはわからない。よくあるのがラインを送ったけどみれない、という現象。母にラインを送り、既読になるかなとしばらくスマホの画面をチラチラと見るけど、いっこうに既読にならない。明日になれば見るかと思い寝るけど、翌日になっても既読にならないことがある。そんなときはたいてい、母のスマホの不調だ。母に電話をすると「送られてないわよ」、「なに再起動?横にあるボタンを長く押せばいいのね」と不満そうな声がスマホから漏れてくる。不満な声を受けつけてないんだけどな。
母は「いまはデジタル化で私たちは大変だ」とよくいっている。こうしておいてかれそうになりながらもたくましく生きているのだから、すごい。

