日常

誕生日は、こんなもんだろ

pes

誕生日への期待

みなさんは誕生日をどう過ごしていますか。それよりまず、誕生日は意識しますか。

十代、二十代のころは誕生日というと、とても特別で意識しないでいられない日だった。誕生日の数字は、はっと目に留まるものだったし、なにかワクワクさせてくるものだった。四十代にもなると意識していてもふと忘れ、その数字はただの数字に成り下がってきてしまっている。

私が期待することが下手になったのかもしれない。誕生日を四十回近く過ごすと「誕生日なんてこんなもんだろ」と思う。誕生日は日常の続きであって、ドラマチックなことが起きる日ではない。ドラマチックなことが起きると疲れてしまうことも知った。非ドラマチックで心穏やかに過ごせることが一番のプレゼント。そして家族から祝ってもらえることが幸せだ。

なにごとにも期待しながら生きていたころとは違う。そう。これはこれでいい。

誕生日に期待しすぎた時代

はじめのほうでもいったけど、十代、二十代のころは誕生日は特別な日だった。

まだ小さいうちは誕生日に親からプレゼントがもらえていた。好きなものを買ってもらえるので、なにがいいかと新聞にはさまってくるチラシをよく見ていた。当時はいまと違って、家庭にインターネットがあたりまえのようにあるわけではない。情報はテレビかチラシかお店しかなかった。

特定のなにかを買うと決めて行くこともあったし、お店に行ってみてから決めることも多々あった。

大抵はおもちゃかゲームソフトだったけど。

多感な十代を過ごしていると、そのうち“恋”をするようになる。恋をした十代が欲しいものは、ゲームソフトより好きな人から「おめでとう」だったりする。好きな人が自分の誕生日を覚えていてくれているだろうか、なにか言ってもらえるだろうか、なんてことを時間のある限り考えていた。

初めて恋人ができたときは、誕生日にメッセージが来て気持ちが高揚したことを覚えている。はじめのうちはメッセージだけでも嬉しかったけど、もっとドラマチックな誕生日が過ごせるんじゃないかと期待の風船を膨らませては割れた。

そこには期待しかなかった。

もちろん期待通りにいかないことがほとんどだったし、テレビやマンガで見るようなドラマチックなことは起きない。私の想像を超えるような誕生日を過ごせないことに十代、二十代のころはがっかりしていた。それでも誕生日は特別なことが起きると本当に信じていた。

そして特別なことが起きない誕生日をなんどか過ごすうちに、いまのような心境になった。

「誕生日なんてこんなもんだろ」

過度な期待をしない誕生日は案外いいものだ。

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日常エッセイスト
1984年生まれ。エッセイスト。 小さなできごと(いいことも、わるいことも)を、ここに書き留めています。
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