定期的に基礎は大事だと気づく

定期的に基礎は大事だと気づく
運動や勉強をしていると必ず出てくる言葉、それは「基礎」。「基礎が大事」や「基礎がないとできない!」なんてざっくりした言葉を見かけることがある。でも、正直いうと基礎ができてなくてもやっていくうちになんとかなることもある。なんとかなってしまうから、つまらない基礎の練習ではなく実践したくなるものなのだ。
私は最近、英語を勉強しているのだけれども始めのうちは「基礎が大事!」と思って基礎の勉強をするけど、やはりつまらない。なので、基礎をすっ飛ばして実践だ!という自分にとって都合がいい情報に食いついてしまう。基礎については一応学生時代に勉強しているのでなんとかなると思っているところもある。
実践はやはり楽しいし最初のうちは(なんとなく)成長している気がするもの。いっぱい英語聞いてるから、リスニングが上達した気がするとか。英語をいっぱい読んでいるから、リーディングが上達した気がするなど。
ただ、ここから伸びるためには結局「基礎」が必要になってくる。わからない単語だったり、うる覚えな文法を放置しておくと、英語を聞いたり読んだりする耐性はできても(英語を聞く読むも慣れが必要)やはり「何を言っているかわからない」になってしまう。
「基礎が大事!」は今にはじまったことではない。何回も「基礎が大事→飽きる→実践→躓く→基礎に戻る」を繰り返している。それでも基礎をやりきれないのだ。
それだけ基礎は大変というか、つまらないことなのだ。日常がつまらないものと同じように、日常は非日常が楽しくなるための基礎のようなもの。でも楽しいことばかりしてると生活はできないから大変だ。
英語の基礎も、「土台」みたいなものなんだろう。
さすがに私も観念して基礎をしっかりやるべきなのだろう。パッとしない日常を送れているのだから英語の基礎なんてどってことない。そう思おう。
実は。。。だった
最近ではテレビ業界が賑わっている。悪いことをして”終わった人”になると途端に今までの情報とは違って「実は。。。が嫌だった」「本当は悪い人だった」系が出てくる。
そういう記事を読むと「その時、言えばよかったじゃん」と思う。完璧な人なんてこの世にはいないのだから、違うと思ったことは言えばいい。たとえ、利害がある人だとしても。
”終わった人”になっても評価を変えない人になりたいと思う。「死人に口なし」ではないけど、反論できなくなってから色々というのはやはりどこか卑怯な気がしてしまう。嫌なことや、やめてほしいことは現行犯で言うべきだ。まぁ難しいことではあるけど、理想ではある。
何事も、「後から気づく」前に、ちゃんと向き合うことが大事なのかもしれない。